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2020年8月24日月曜日

ジョン・レノンを聴きたくて

ニューヨークで日本語 

 



 私が車で送迎するお客さんの八割はいわゆるリピーターで、昔から馴染みという人が多いです。そういった方は、気軽に世間話をしながら、目的地まで移動できるのですが、初乗りのお客さんの中には、どういった性格や習慣があるかわからないので、会話は少なめです。はじめこちらが話しかけて、あまり乗ってこないようだと、話したくないのだと判断し、ずっと目的地まで寡黙を通します。この日初めて乗車された初老の紳士は、地元の町からマンハッタンのミッドタウンまで行くよう依頼されたのですが、最初からむすっとした感じで、ミラー越しにみても腕を組み「話しかけるな」オーラを発しているように見えたので、こちらも言葉を発しないままマンハッタンまで1時間20分ほど走りました。

 目的地の10分ほど手前で、私が住所を確認すると、その紳士はいきなり私にどこからきたのかと聞いてきました。日本だと答えると、その人は片言の日本語で「ああ、やっぱりそうですか」と言いました。片言とはいえ、十分伝わるレベルです。彼は続けて「チャイナ人かもしれないと思いました。失礼しました」そう言うのです。

 私が「日本語が上手ですね」と褒めると、彼は昔日本に住んでいたと言いました。東京と軽井沢に数年滞在していたそうです。もう30年以上前のことだそうです。

「ワタシは、和菓子の勉強で日本にいました。生活費を稼ぐため、日本人にジャズ・ピアノを教えていました」彼はそう言いました。日本は大好きだと話は続き、次第に日本での思い出を語りだしたのです。しかしあいにく目的地はもう目の前に迫っていました。もっと早く彼の日本語に気付いて、話し相手になれれば良かったのにと思っても後の祭りです。

 ところが彼も話し足りなかったのか、急遽行く先を変えて、数ブロック先のとあるビルディングに行くよう指示してきました。私がそれに従うと、着いた先はあの有名なダコタハウスでした。

「ここにジョン・レノンが住んでいた」彼が言いました。もちろん私も知っています。

「そうですね」私が答えました。彼はマスク越しになぜかふふふと笑い、

「私はね、軽井沢で彼を見かけたんだ」紳士はそう言いました。「ヨーコ・オノも一緒だった。ふたりは仲良くコーヒーを飲んでいたね」

 彼が懐かしそうにそう言いました。

「へえ、そうですか」私が聞き耳を立てていると、「その先で下ろしてください」といきなり言われました。

 まだ話がありそうだったのに、あっけなくそう言われたのです。

「久しぶりに日本語を使いました」彼は微笑んで下車しました。

 私はなんだかコニュニケーションが尻切れトンボのようでバツが悪かったのですが、にっこり笑って「ありがとうございます」と丁寧に言いました。

 ニューヨークで日本語を話す人と会ったのは久しぶりだったので、なんだか名残惜しくなりました。もっと話せばよかった。そう思いながら、ひと仕事終えた私は、何の気なしにハンドルをとある場所に向けて走り出しました。

 ジョン・レノンという思いがけない名前を聞いて訪れたのは、セントラルパークにあるストロベリー・フィールドという記念碑のある場所でした。

 もう夕暮れ時だったので樹々の下は薄暗く、人気も少なかったのですが、敷地の歩道を歩いているとどこからともなく「パワ~トウーザ・ピーポ~!」とジョン・レノンの歌声が聞こえて来ました。おりしも止んでいた雨が小振りになり、周囲にふいに静けさが訪れました。

「幽霊? ばかな。ま、まさか、そんな」ちょっとビビりながら進んで行くと、その先にファンの聖地、ストロベリーフィールドの記念碑が現れました。碑にはきれいに花が飾られていました。
 その周囲には数人の若者がいて、スマホでビートルズの曲を流して聴いていたのです。なんというか、彼らも旅行者らしくて、ちょっとしんみりしめやかな雰囲気でした。気軽に「ハーイ!」なんて挨拶できる空気じゃありません。
 私は申し訳無さげに腰を低くして写真を1枚撮り、そろそろとその場を通過しました。
 どういう人たちか知りませんが、きっとジョンとその音楽をこよなく愛する人たちなのだと思いました。没後30数年たっても未だに愛され続けるジョン・レノン。さぞかしアーティスト冥利につきるでことでしょう。

 日本語を話すお客さんに導かれるように、十数年ぶりに来てみたストロベリーフィールド。そこは相変わらず、永遠の愛を歌うように、人々の心を惹きつけてやまない場所でありました。

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