2022年2月13日日曜日

アカデミー賞候補:Drive My Car

サムズアップ・アメリカ!
期待が高まる「ドライブ・マイ・カー」




先日アカデミー賞候補数部門にノミネートされた
濱口竜介監督の「ドライブマイカー」への注目が、アメリカでも高まっています。
ご存じのように昨年公開されるや、カンヌ国際映画祭はじめヨーロッパやその他の国で映画賞を総なめにしてきたこの映画、いよいよアメリカのハリウッドでもその勢いが持続した状態でオスカー候補になったのです。(作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の計4部門)


全米で最大手のラジオ放送組織が運営するNPR(ナショナルパブリックラジオ)では以下のように大絶賛されています。


「ドライブ・マイ・カー」は、今年一番夢中になれる乗り物かもしれない」

『ドライブ・マイ・カー』の壮大な上映時間に怖気づく必要はない。3時間弱の上映時間だが、まるで夢のようにあっという間だ。
村上春樹の2014年の短編小説を濱口竜介監督が脚色し、大幅に拡大したが、退屈さや引き延ばし感は一切ない。
『ドライブ・マイ・カー』のどの5分間にも、いくつかの映画の全体像よりも多くのことが起こっているのだ。愛と喪失、そして芸術が人生の失望を補うことができる方法とできない方法についての複雑な構造のドラマである。今年、これ以上夢中になれる映画、あるいはこれ以上の映画に出会えたら、私は驚くことだろう。


物語は、西島秀俊が見事に演じた家福という東京の舞台俳優の物語。
脚本家の音と結婚して20年、穏やかで温厚な男である。真っ赤なサーブでドライブしながら、音が録音したテープを聞きながらセリフの練習をする姿に、二人の仲の良さが感じられる。

しかし、2人の関係は見た目以上に複雑だ。そして、音の突然の死という悲劇が起こる。

2年後、人生をやり直そうとする家福は、広島の演劇祭のレジデンスに参加し、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を実験的に演出することになる。





しかし、劇場の安全規則により、彼に専属の運転手がつくことになったことを知る。三浦透子演じる20代の物静かな女性、みさきは運転がうまい。

西島も三浦も、お互いに、そして観客に対しても、自分をさらけ出すことを急がない二人を、生き生きと演じている。

二人の関係はこの映画の中心であるが、それはまた映画の一部分に過ぎない。
人生と芸術の境界があいまいな映画は数多くあるが、芸術家の人生をこれほど厳密にドラマ化した作品はあまり記憶にない。
濱口監督は、家福のオーディション、キャスティング、リハーサルのプロセスを自身の映画制作手法と重ね合わせている。
日本語、北京語、韓国語、手話が混在する舞台で、何人もの俳優が心を通わせるのは大変なことだと思われるかもしれない。しかし、同じ言語を話す者同士が、果たしてどれだけ理解し合えるのだろうかと、濱口は考えているようだ。

家福が、妻と不倫関係にあることを知っている高槻という若手人気俳優を起用したことで、事態はさらに複雑になる。
しかし、濱口監督は、メロドラマになりそうな状況を設定しながらも、予想外の展開にするのが特徴的である。
二人は緊張しながらも丁寧に会話を交わし、衝動的で熱血漢の高槻と、冷静沈着な家福の対比が明らかになる。
高槻はこの青年に憤りを感じているが、同時に興味も持っている。

濱口竜介はここ数年、世界の映画界で最もエキサイティングな新しい才能の一人である。
今年初めに公開された『Wheel of Fortune』や『Fantasy』などの映画では、登場人物の人間関係の謎や曖昧さに深く入り込んでいく。
しかしこの『ドライブ・マイ・カー』では、新たな次元に到達している。
その感性は、この作品を形作った二人の作家の素晴らしいマリアージュである。
村上春樹の孤独と疎外感、チェーホフの人間の弱さへの思いやり。演劇の舞台や車の中を、深い人間的なつながりの空間に変えられるのは、稀な映画作家だ。


といった具合で、かなりの絶賛評となっています。

もう一つ、アメリカエンターテイメント総合誌、「バラエティ」のこの映画評は以下のようです。


「日本の「ドライブマイカー」は、オスカー作品賞を取れるか?」

濱口竜介監督の驚くべき『Drive My Car』の3時間の序盤には、映画に登場する自動車の車輪が、レコーダーの中のカセットテープの回転するリールに変化する短いトランジションがある。
まるで、そこに録音された声が車の燃料として機能しているかのように、一瞬、両者は融合する。その音声は、まるで音の亡霊のようにドライバーに寄り添い、何マイルも何マイルも走り続けるのだから。

この作品は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』から題材を得たもので、今年公開された濱口監督による2作目(もう1作は『運命の輪とファンタジー』)です。
村上春樹の短編集『女のいない男たち』を題材にした作品で、日本が初めてアカデミー賞長編国際映画賞にノミネートされ、ブレイク必至の作品です。




俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)とその妻で脚本家の音(霧島れいか)は、夫婦の営みの後の静寂の中で、次のテレビ番組の企画を口頭で練り上げる。
同級生に恋した少女が、彼の家に忍び込み、見落としのないお土産を盗むという話だ。
濱口と共同脚本家の大江崇允の見事な語り口の指導のもと、彼らの自然発生的なフィクションが、やがて自己言及的な優しさをもって重なり合う物語の層のひとつとなる。

恨みを含んだ個人的な悲劇から2年後、
悠介はチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を母国語の俳優で上演するため、災害の歴史を持つ広島に移り住む。
その仕事の一環として、彼は旅のために運転手をつけることに同意しなければならな苦なり、不本意ながら自分の愛車を若いみさきというドライバーに託すことになる。

街路や高速道路で真っ赤に燃えるアーティストの車は、自由と孤独の象徴であり、帰還と出発、最愛の人への帰路と現在の転落からの脱出を体現している。
その移動空間の静寂の中で、前述した妻の声を吹き込んだテープを通して、命綱のような音の声がスピーカーから流れてくる。

「ドライブ・マイ・カー」は、
悠介の内なる苦境を、決して強く押しつけることなく、痛みをその時々に展開させながら、心優しい機転で考察している。
濱口からカタルシスという神聖な救済を受けた時、その長い感情の封じ込めは、呆然とするほどの共有の解放となる。

西島は、その淡々とした演技に驚かされる。悲嘆にくれた夫であり、父親であり、その苦悩を職業的勤勉さで覆い隠しながら、最愛の人への怒りが飲み込めなくなるまで、ひたすら平静を装う。そのストイックな身のこなしは、本当の自分を見せまいとする不屈の要塞のようだ。

そのエネルギーは、彼の専属運転手であるみさき(三浦透子)と一致する。
彼女は、過去の廃墟に埋もれた罪悪感から、安全な場所よりも遠くに逃げているのだ。
主演役の高槻幸嗣(岡田将生)らと日々稽古に励む悠介の姿を見ているうちに、みさきとの親和性が少しずつ浮かび上がってくる。三浦の控えめな演技が、互いの秘密と、後に二人の心を麻痺させる罪悪感を増幅させる。

控えめなみさき
は、当初、彼の録音を再生する程度の交流にとどまっていた。
しかし、ディナーのシーンで彼女のスムーズなドライビングテクニックを褒め称えることで、二人に課せられたパワーインバランスに残っていた隷属的な空気は取り払われる。
濱口はさらに、悠介の国際的な俳優たちが、感覚的な記憶に基づいて互いに演技をし、しばしば相手の言うことを言語では理解せず、単独で感じ取る姿に、人と人との間の暗黙の了解を見るのである。

撮影監督・四宮秀俊による繊細な映像の数々は、一見何でもないような出来事から荘厳な視覚的象徴を掘り起こす。
例えば、神聖な移動手段である車のサンルーフ越しに、煙草を持つ悠介とみさきの手が映し出されるが、これは暗黙の了解で、尊敬の念を表している。
四輪車の後部座席での長い会話は、カメラを二人の顔に向けさせ、相手の発音や反応を他の装飾なしに記録し、何を話し、相手がそれをどう受け取っているのかを尊重することになる。
誠意をむき出しにした二人の対話の行き来は、そのシンプルな構図の中で、とても魅力的に感じられる。

この壮大なヒューマンドラマにはフラッシュバックがない。
登場人物たちは、かつての自分の姿ではなく、その体験の産物である現在の自分の姿に生き生きとした表情を見せるのだ。
キャラクターがキャストの身体に浸透していくことで、恩着せがましい知恵ではなく、生活感のある共感的な啓示を与えているように見える。
自分自身との精神的な対決を目的地とする、思慮深く涙もろい乗り物「Drive My Car」。
私たちが逃げ出す悲しみ、私たちを目覚めさせる衝突、道のあらゆる段差から得られる癒しを、乗り物の詩を通して壊し、慰めてくれるのです。



こちらも大絶賛の映画評となっていますね。
アカデミー賞はこの映画を観てから楽しみたいものです。

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